現代語訳

K林
2の3は前載せた
2の2は資料はあるから打ち込むだけなのでしばしお待ちを
2の5

昔、東大寺に上座法師(じやうざほふし)1のいみじくたのしき2ありけり。露(つゆ)ばかりも、人に物与ふる事をせず、樫貪(けんどん)3に罪深く見えければ、その時聖宝(しやうほう)僧正4の、若き僧にておはしけるが、この上座の、物惜(をし)む罪のあさましきにとて、わざとあらがひ5をせられけり。

  「御坊、何事したらんに、大衆(だいしゆ)6に僧供(そうぐ)7引かん8」といひければ、上座(じやうざ)思ふやう、物あらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんもよしなし。さりながら衆中にてかくいふ事を、何(なに)とも答へざらんも口惜(くちを)しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭9の日、真裸(まはだか)にて、褌(たふさぎ)10ばかりをして、干鮭(からざけ)11太刀(たち)12にはきて、やせたる牝牛(めうし)に乗りて、一条大路13を大宮14より河原15まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。然(しか)らば、この御寺の大衆より下部(しもべ)にいたるまで、大僧供(だいそうぐ)引かん」といふ。

 心中に、さりともよもせじと思ひければ、固くあらがふ。聖宝(しやうほう)、大衆みな催(もよほ)し集めて、大仏の御前にて、金(かね)打ちて、仏に申してぬ。

 その期(ご)近くなりて、一条富小路16に桟敷(さじき)17うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集りぬ。上座もありけり。暫(しばら)くありて、大路の見物の者ども、おびたたしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出(いだ)して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部(わらはべ)つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高くいひけり。その年の祭には、これを詮(せん)18にてぞありける。

 さて大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。この事帝(みかど)聞(きこ)し召して、「聖宝は我が身を捨てて、人を導く者にこそありけれ。今の世に、いかでかかる貴(たふと)き人ありけん」とて召し出(いだ)して、僧正19までなしあげさせ給ひけり。上(うへ)の醍醐(だいご)20はこの僧正の建立(こんりふ)なり。



1三綱(さんごう)(上座・寺主・都維那〈ついな〉)の一。三綱は衆僧を監督し寺務をつかさどる三人の役僧。「上座」は衆徒の上に座するの意で徳望のある僧が任じられる。延暦寺東大寺などの諸大寺におかれた。
2豊かである。富裕だ。「頼 タノム サイハヒ タノシ」(名義抄)
3欲が深いこと。
光仁天皇の後胤。兵部大丞葛声王の子。俗名恒陰王。讃岐国の人。十六歳で貞観寺の真雅僧正に従い得度。以後顕密の学に励み、また名山霊地を巡って修練し、修験道をも再興する。貞観の末頃、宇治に醍醐寺を開いて修行の道場とし、延喜四(904)年僧正に任ぜられる。同九年没、七十八歳(聖宝僧正伝)。
5言い争い。また、賭をすること。
6 多くの僧徒。衆徒。「山門の大衆」(平家巻二・山門滅亡)。
7僧侶に供養する者。扶持料。
8 「引く」は贈る、施す、引出物(ひきでもの)とする意。
9 京都賀茂神社の祭り。
10 短い股引の類。下帯の類。
11乾鮭。鮭の腸をとって素乾(しらぼし)(塩などを加えずにそのまま乾す)にした物。
12「太刀」は断(たち)の意。上代には刀剣の総称ですべて諸刃であった。片刃のものを「刀」という。のちに大きい片刃の刀の称となる。太刀は「は(佩)く」とい、刀は「差す」という。
13 京都の最北を東西に通じる通り。
14大宮大路。
15賀茂川の河原。
16一条大路と富小路との交差するあたり。
17見物のために高く構えた床。
18せんじ詰めたところ。ここでは一番の見ものの意。
19僧官の最上級。聖宝が僧正に任ぜられたのは、延喜六年十月七日(東寺長者補任)。
20醍醐寺京都市伏見区醍醐東大路町にある古義真言宗醍醐派の総本山。『聖宝僧正伝』によれば「元慶之始、貞観之終」、寺伝によれば貞観十六(874)年に聖宝が開山。山上の上(かみ)の醍醐と山麓の下(しも)の醍醐から成り、のち勅願寺となる。本尊は薬師如来。山上の観音堂は西国第十一番の札所。山下の三宝院は修験道の本山。




小林知昭氏による現代語訳

 昔、東大寺に上座法師(じょうざほうし)でたいへん裕福な僧がいた。ほんのわずかばかりも人に物を与えることをせず、けちで貪欲(どんよく)で罪深く見えた。それで聖宝(しょうほう)僧正は、その時まだ若い僧でおいでになったが、この上座の、物を惜しむ罪のあまりのひどさに見かねて、わざと争いごとをもちかけられた。

  「あなたは何をしたら、衆僧に供養をしますか」と言うと、上座は、「争いごとをしてもし負けた時、供養するのもつまらぬ。かといって大勢の中でこういうことを、何とも答えないのも残念な話」と思って、彼がとうていできそうもないことを思案して言った。 「賀茂祭の日、まっ裸になり、ふんどしだけで、干鮭(からざけ)を太刀(たち)としてさして、やせた牝牛に乗って、一条大路を大宮から河原まで、『わしは東大寺の聖宝だ』と声高く名のってお通りなされ。そうすればこの御寺の大衆(だいしゅ)から下部(しもべ)にいたるまで、大いに供養を施そう」。

 そして心の中では、そうは言ってもまさかやるまいとったので、かたく賭の約束をした。聖宝や大衆をみな呼び集めて、大仏の御前で鐘を打って誓い、仏に申して去って行った。

 その期日が近くなって一条富小路に桟敷を構え、聖宝が渡るのを見ようとして大衆がみな集まった。上座もいた。しばらくたって、大路の見物の者たちがひどくざわめき出す。何だろうと思って頭をさし出して西の方を見やると、牝牛に乗った裸の法師が、干鮭を太刀(たち)としてつけて、牛の尻をびしびしと打って、その後には何百何千という子供たちがついて、「東大寺の聖宝が、上座と賭をして今こそ通るぞ」と声高く言った。その年の祭りでは、これがほんに第一の見ものであった。

 こうして大衆はおのおの寺に帰り、上座に大いにふるまいをさせた。このことを帝がお聞きになり、「聖宝は自分の身を捨てて、人を導くりっぱな者である。今の世にどうしてこういう尊い人がいたことか」と召し出しになり、僧正にまで昇任させられた。上の醍醐は、この僧正の建立したものである。



●宇治醍醐寺の開祖聖宝僧正の奇行譚。奇行とはいっても、前の増賀の場合と同じく賛嘆の論調のうちに描くことは、帝のことばにも示されている。『古事談』には二人のことを「賀茂祭ニ聖人渡事者、聖宝僧正渡始ケリ。其後増賀上人被渡…」と記す。同じ行為だが、聖宝の場合は自分の犠牲において慳貪な上座の性を正し、ひいては衆僧の経済的な助けをしたわけであろうが、増賀は聖宝のこの行為を慕って、自分の名利を捨てるために行なったものと思われる。いずれにせよ当時の宗教界にあっては、自己放棄の範ともいうべきものであったろう。

参考URL
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ujishui-12-shoho-karazake.htm


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