現代語訳@完全版(仮)
K林
2の1
2の2
今は昔、河原院は融の左大臣の家である。陸奥の塩釜の風景をまねて庭をつくり、潮水を汲みよせて塩を焼かせたりなど、さまざまな風雅の限りを尽くして住んでおられた。大臣が亡くなってのち、宇多院に進上したものである。延喜の帝(醍醐天皇)がたびたび御幸になった。
まだ宇多院がお住みになっておられたころ、夜中時分に西の対屋の塗籠を開けて、そよそよと衣ずれの音がして人がくるように思われたので、ご覧になると昼間の礼装(束帯の装束)をきちんと着用している人が太刀をつけて、笏を持って二間ばかりさがってかしこまって座っていた。「お前は誰か」とお尋ねになると、「ここのあるじの霊でございます」と言う。「融の大臣か」とお聞きになると、「そうでございます」と言う。「では何事か」と仰せになると、「わが家ですので住んでおりますが、帝がおいでになるのが畏れ多く、窮屈に存ぜられます。どうしたものでございましょう」と言うので、「それはまったくもっておかしな話だ。お前の子孫が私にくれたからこそ住んでいるのだ。私が無理に奪い取って住んでいるというならともかく、礼儀もわきまえずに、どうしてそのように恨むのか」と超え高らかに仰せられると、かき消すように失せてしまった。そのとき、人々は、「やはり、帝はどこか違っておいでになる方です。普通の人なら、その大臣に会って、あんなにきっぱりとしたものが言えるだろうか」と言い合ったという。
2の3
その昔、丹後の国に年老いた尼がいた。
「地蔵菩薩はいつも、夜明け方にお歩きになる」
という話を聞き、地蔵を拝みたいと思って、夜明けごとに外出してあてどなく歩き回っていた。
そんな尼を、道端で暇をつぶしていた博打打ちが見て、
「尼さんよ、この寒いのに何をしているのかね」
と声をかけた。
「地蔵菩薩は夜明けにお歩きになるそうな。そのお姿に会いたくて、こうして歩いておりまする」
と尼が応えると、博打打ちはすかさず悪知恵をはたらかした。
「地蔵の歩く道なら、俺がよく知ってる。ついて来いよ。会わせてやろう」
「まあ、うれしいこと。ぜひ地蔵さまの歩かれる道に連れて行ってくだされ」
「何かお礼が貰いたいな。そうしたら、すぐ連れて行ってやる」
「私の着ている衣を差し上げましょう」
「よっしゃ。では行こう」
博打打ちは尼を、隣の家に連れて行った。
その家には「じぞう」という名の子供がいたのだった。博打打ちは親と知り合いだったので、
「じぞうはどうした?」
と尋ねると、親は、
「遊びに出たよ。もうじき戻るだろう」
と言う。そこで尼を振り返って、
「ほら、ここだよ、地蔵のいるところは」
尼は喜んで、紬の着物を脱いで与えた。博打打ちはそれを受け取ると、急ぎ足で立ち去った。
尼は、
「地蔵にお会いしたい」
と言ってその場に座って待っているのだが、親たちにはわけが分からない。
「なんでうちの餓鬼なんかに会いたいんだろう」
と訝しんでいるところに、十歳ばかりの子供が小枝をもてあそびながら家に入ってきた。
「ほら、じぞうだよ」
と親が言うと、尼は子供を見るやいなや我を忘れて、転げるように土間にひれ伏し、伏し拝んだ。
そのとき子供は、何気なく小枝で額を掻いた。すると額から顔までびしびしと裂け、裂けた下から何ともいえずありがたい地蔵の顔が現れた。
尼が拝みつつ仰ぎ見ると、まさしく地蔵菩薩がお立ちになっている。感涙に咽びつつ拝みに拝んで、そのまま極楽往生を遂げた。
このように心に深く念じていれば、仏も姿をお見せになる。そう信じるのがよい。
2の4
今は昔、大隅守であった人が国の政を執っておられたが、郡司がいいかげんであったので、「予備にやって罰にしよう」といった。
前々にもこのように職務怠慢のあった時には、その罪によって重く罰したり、軽く罰したりしていたが(あるいは重くあるいは軽く戒めていたが)、この郡司は一度ならず、たびたび不始末があるので、今度は重く罰しようとして呼び出すのであった。「ここに呼び出して、連れてまいりました」と、呼びに行った者が言ったので、前々からしていたように、うつぶせにして尻や頭にのって押さえるもの、笞を用意して打つ役の者を準備して、まず二人のものが先に立って引っ張って出てきた。それを見ると頭は黒髪もまじらず、真っ白で年をとっていた。
見ると、笞打つことも不憫に思われたので、「何かにかこつけて許してやろう」と思うが、口実にすべきことがない。過ちなどを片端から聞くと、ただ年寄りのために怠ったことを言い訳にして答えている。「何とかこれを許してやろう」と思って、「おまえは本当にしようのないやつだな。歌は詠めるのか」と言うと、「たいしたことはありませんが、詠みましょう」と申したので、「ならば詠め」と言われて、まもなく震え声で詠みあげる。
(私は年をとって、頭に雪―白髪―が積もり、今更霜などに驚かないはずですが、[しもと:霜と・笞]を見るとやっぱり身が冷えてぞっといたします。)
と言ったので、いたく興を覚え感じ入って許してやった。人はいかにも風流のたしなみはあるべきものである。
2の5
昔、東大寺に上座法師(じょうざほうし)でたいへん裕福な僧がいた。ほんのわずかばかりも人に物を与えることをせず、けちで貪欲(どんよく)で罪深く見えた。それで聖宝(しょうほう)僧正は、その時まだ若い僧でおいでになったが、この上座の、物を惜しむ罪のあまりのひどさに見かねて、わざと争いごとをもちかけられた。
「あなたは何をしたら、衆僧に供養をしますか」と言うと、上座は、「争いごとをしてもし負けた時、供養するのもつまらぬ。かといって大勢の中でこういうことを、何とも答えないのも残念な話」と思って、彼がとうていできそうもないことを思案して言った。 「賀茂祭の日、まっ裸になり、ふんどしだけで、干鮭(からざけ)を太刀(たち)としてさして、やせた牝牛に乗って、一条大路を大宮から河原まで、『わしは東大寺の聖宝だ』と声高く名のってお通りなされ。そうすればこの御寺の大衆(だいしゅ)から下部(しもべ)にいたるまで、大いに供養を施そう」。
そして心の中では、そうは言ってもまさかやるまいとったので、かたく賭の約束をした。聖宝や大衆をみな呼び集めて、大仏の御前で鐘を打って誓い、仏に申して去って行った。
その期日が近くなって一条富小路に桟敷を構え、聖宝が渡るのを見ようとして大衆がみな集まった。上座もいた。しばらくたって、大路の見物の者たちがひどくざわめき出す。何だろうと思って頭をさし出して西の方を見やると、牝牛に乗った裸の法師が、干鮭を太刀(たち)としてつけて、牛の尻をびしびしと打って、その後には何百何千という子供たちがついて、「東大寺の聖宝が、上座と賭をして今こそ通るぞ」と声高く言った。その年の祭りでは、これがほんに第一の見ものであった。
こうして大衆はおのおの寺に帰り、上座に大いにふるまいをさせた。このことを帝がお聞きになり、「聖宝は自分の身を捨てて、人を導くりっぱな者である。今の世にどうしてこういう尊い人がいたことか」と召し出しになり、僧正にまで昇任させられた。上の醍醐は、この僧正の建立したものである。
K山
土佐日記舟出
男も書くという日記というものを女も書いてみようと思って書くのである。
承平4年の、12月の、21日の午後8時頃に出発する。
国司の館からの出立の様子を少しばかり紙に書き付ける。
ある人が、国司としての任期の4・5年が終わって、定められた国司交代の際の
引き継ぎ事項事務をみなすませて、任務完了の解由状など受け取って、
住んでいた国司の官舎から出て、船に乗るはずの所へ移る。
あの人もこの人も、知っている人も知らない人も送る。
長年の間、仲良くつきあってきた人々は、特にわかれ難く思って、一日中盛んに
荷物の整理、引っ越しやら、送別やらで大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。
22日に、和泉の国まで、平穏無事であるようにと、心静かに神仏に祈願をする。
藤原のときざねが船旅であるのに馬のはなむけをする。
身分の上の者も、中・下の者も、すっかり酔いしれて、ひどく見苦しいさまで海辺でふざけあっている。
23日。八木のやすのりという人がいる。この人は、国司の役所で必ずしも召し使ったりする者ではないそうである。
この人が、いかめしい様子で、餞別をしてくれた。国司の人柄だろうか、田舎人の人情の常として、「今となっては。」
と言って顔を出さないそうであるが、真心のある人は、気兼ねしないでやってきたのである。
これは、物をもらったからほめているのではない。
24日。国分寺の住職が、餞別をしにお出ましになった。
身分の高い者も、低い者もすべて、子どもまでも酔っぱらって、「一」という文字さえ知らぬ者が
その足は「十」文字に踏んで遊び興じている。
土佐日記帰京
京に足を踏み入れてうれしい。家に着いて、門をはいると、月が明るいので、実にはっきりと様子が見える。聞いていたよりも、言いようもなくひどく壊れ傷んでいる。家に託してあった人の心も、すさんでいたのだったよ。隣との境の垣はあるが、一つ屋敷のようなので、望んで預かったのである。それでも、ついでごとにお礼の物も絶えずやっていたのだ。今夜は、「こんなこと。」と、大声で言うこともさせない。実に薄情に見えるが、謝礼はしようと思う。
さて、池のようにくぼんで、水がたまっているところがある。そばに松もあった。5・6年のうちに、千年もたってしまったのだろうか、一部分がなくなってしまっていた。新たに生えたのが混じっている。大部分がみな荒れてしまっているので、「ひどい。」と人々が言う。思い出さないことはなく、恋しく思う中で、この家で生まれた女の子が、一緒に帰らないので、どんなに悲しいことか。同じ船で一緒に帰京した人たちもみな、子どもが群がり集まって騒いでいる。こうした中に、やはり悲しさに堪えきれず、ひそかに気持ちを理解してくれる人と詠み交わした歌、
生まれた子も帰ってこないのに我が家に小松が生えているのを見ることの悲しさよ
と詠んだ。まだ詠み足らないのだろうか、また、このように詠んだ。
亡くなった子が松のように千年も見ることができたら、遠い土地で悲しい別れをすることがあっただろうか、そんなことはなかっただろうに。
忘れがたく、残念なことも多いが、書き尽くすことはできない。とにもかくにも、早く破ってしまおう。
孟子は言う。
「人間たるもの、誰でも他の人間に対して放っておけない心があるものだ。いにしえの王は、この他の人間に対して放っておけない心を持って、他の人間に対して放っておけないという政治をした。このように、他の人間に対して放っておけない心を持って、他の人間に対して放っておけないという政治をするならば、天下を治めることは手の平の上で転がすようにたやすいことだ。
人間が誰でも他の人間に対して放っておけない心があるという理由は、こういうことだ。
今、ちっちゃい子供が井戸に落ちかけていたとする。これを見たらどう行動するか?誰でもこれはいかん!とあせってかわいそうだ!と思って助けるだろう。その瞬間、これをネタに子供の父親母親に取り入ってやろう、などとと考えないだろう。地元の英雄になって友達から賞賛されたい、などと考えないだろう。見殺しにした薄情者めと悪名を受けるのはいやだ、などと考えないだろう。こうやって考えれば、惻隠の心(かわいそうだ、と思う心)がないのは、人間でない。
同様に、羞悪の心(悪を恥じる心)がないのは、人間でない。辞譲の心(ゆずってへりくだる心)がないのは、人間でない。是非の心(何が正しいことかまちがっていることかを区別判断する心)がないのは、人間でない。
惻隠の心は、仁の始まりだ。羞悪の心は、義の始まりだ。辞譲の心は、礼の始まりだ。是非の心は、智の始まりだ。この「四端」(四つの始まり)があるのに、仁義礼智の道を行えないと言う者は、自分の価値を貶める者だ。ひるがえって君主に仁義礼智の道を行えないと言う者は、君主の価値を貶める者だ。大体、自分にある「四端」を発展拡張していくことを知る者は誰でも、おこした小さな火がやがて大火となり新しく掘った井戸がやがてどんどん水を噴出すように仁義礼智の道を奥へ奥へと進んでいくのだ。これを大きくしていけば、やがて天下を安んじることもできるだろう。逆に、これを大きくしていかないならば、両親に仕えることすらできない。」
昔、韓の昭侯は酔って寝てしまったことがあった。
そのとき、主君の冠を管理する典冠という役職にある者が、
昭侯が寒そうにしているのを見た。
そこで、典冠の者は、昭侯の上に衣をかけた。
昭侯は眠りから覚めて、衣がかけられていることに喜び、
こう左右の者に聞いた、
「誰が衣をかけてくれたのか。」
左右の者はこう答えた、
「典冠の者です。」
そのため、昭侯は主君の衣服を管理する典衣という役職にある者と、
典冠の者の、二人とも罰した。
典衣の者を罰したのは、その職責を全うしていないと考えたからである。
典冠の者を罰したのは、典冠としての職権を越えていると考えたからである。
寒さを嫌がらないわけではない。
他者の職務を侵すことの害は、寒さのそれよりも重く見るべきだと考えたのである。
だから、明主が臣下を召し抱えておくときには、
臣下は職権を越えて功績を挙げることはできず、
自分の能力について述べたときは、
その通りの結果を残さなければならない。
職権を越えれば死刑となり、
自分の能力について述べてその通りの結果を残せなければ罰せられる。
仕事を職権の範囲にとどめ、発言に忠実であれば、
群臣は徒党を組んで君主を欺くようなことは無い。
昔、鄭の武公は胡を征伐しようとした。
その為、まず娘を胡の君主に嫁がせ、そうすることで胡の君主の心証を良くしておいた。
そして、群臣にこう聞いた、
「私は戦争をしようと思う。
どこを征伐するのが良かろうか。」
大夫の関其思がこう答えた、
「胡を、征伐なされるべきです。」
武公はこれを聞くと怒り、大夫関其思を殺してこう言った、
「胡は兄弟のような国だ。
そうであるのに、これを征伐せよというのは、何事か!」
胡の君主は、このことを聞いて、鄭が自分たちに親しいと考え、
それから鄭の侵攻に対する備えをしなくなった。
鄭人はその隙に胡を襲って占領した。
宋にある富豪がいた。
雨が降って、家の塀が崩れた。
その家の子はこう言った、
「塀を築きなおさなければ、必ず盗みに入られるだろう。」
また、隣家の父も同様なことを言った。
日が沈んで夜になると、やはり、多くの財産を盗まれてしまった。
その家の人は、その子を相当に賢いと褒め称えたが、
隣人の父に関しては、怪しいと考えた。
この鄭の大夫と、隣家の父との二人は、意見は全て正しいのに、
ひどい場合には殺され、軽い場合でも疑いの目を向けられた。
ということは、知識を得たり本質的に理解したり見分けたりするのが難しいのではなくて、
それらによって得たものをどう処理するかが難しいのである。
だから、繞朝が言ったことは正しく、晋では彼を聖人だと評価したが、秦では死刑にされた。
このようなことについては、考察せねばなるまい。
以上完全版(仮)
間違ってる箇所・他の良い訳を推奨すべき箇所等発見した方、ご指摘よろしくお願いしますm(__)m。
K林の2の1の方はよろしくお願いしますm(__)m>Lay-Laさん